2014年10月28日

三国志 登場人物紹介・その27 〜周瑜 公瑾〜

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どうも!
ど〜〜もです!!

jami です(^^)
戦国武将や三国志が大好きな jami であります(^^)
好きなくせしてそんなに詳しくない jami であります!( ;´Д`)

当ブログにお越しくださり、誠にありがとうございます☆
当ブログは自己満仕様となっております。
調べればすぐに分かることを知って驚いたり狂喜したり切なくなったりする素人です。
素人でございます。


大いなる物語(?)・三国志を jami 的視点で語らせていただきます。
が、大した内容はございません。
最近 戦国武将・三国志ファンになった方に向けて、入門書の前の入口だと思って読んでいただけましたら幸いです。

「入門書の前の入口」 って、どれだけ内容薄いんだってな感じですが(^^;)

なにとぞ宜しくお願いいたします!


ではでは

今回もいきましょう、あのコーナー!!
jami 的三国志・登場人物 紹介ぃ〜〜〜!!!
三国志に登場する魅力的な方々を、jami 的視点で書いていきます。

そしてそしてぇ!
jami 的能力値判定なるものを設け、誠に勝手ながら、【武力】【知力】【魅力】の数値をつけさせていただきました。

1 ・・・ 凡庸
2 ・・・ 人並み以上
3 ・・・ 優秀
4 ・・・ かなり優秀
5 ・・・ 超かなり優秀

これも、かなり!かな〜〜〜〜り!!個人的見解ですので、「ふ〜〜〜〜ん、あそ(´・_・`)」ってな感じで、大きな心で見てやってくだされば幸いです(^^;)
まぁ、お気軽に読んでやってくださいな( ´ ▽ ` )ノ

本日はこの方ぁ!!!



周瑜 公瑾。


jami 的能力値判定
【武力】 3 ★★★
【知力】 4 ★★★★
【魅力】 4 ★★★★

はい。周瑜 公瑾 (しゅうゆ こうきん)さんです。
あの赤壁の戦いにて曹操率いる大軍勢を破った立役者であります。
映画 「 レッドクリフ 」 でも大活躍してましたね。
文武両道の美青年、そして音楽の才もあったとのこと。
素晴らしすぎる方ですね(^^)

ゲームや漫画にて、頭が良くて腕もたつ美男子がたくさん出てきますが、この周瑜さんはまさにそれを地で行っちゃってますね(^^;)
大袈裟ではなく(^^;)
まぁ、今でいうカッコ良さと当時のカッコ良さとは違うのかも知れませんが、そんなことはいいのです。
とにかく、文武両道の美青年、しかも軍を率いて、さらなる大軍を打ち負かす司令官というだけで胸が熱くなりますね(^^)

・・・あれ、なりません?(^^;)
私はなるのです☆


呉の君主・孫策とは親友で、孫策なきあとは、その弟である孫権に仕えました。
孫権さん主導の体制がうまく機能したのは、この周瑜さんが全面的に協力したことが大きいかと思います。
頭が良く、しかもそれは机上の空論ではなく現実的な思考からくる頭の良さで、なおかつ戦にも長けていたわけですから、他の武官・文官にも一目置かれていたことでしょう。

呉というお国柄(お家柄?)、当主が短い間に三代も代わってしまっているので、新しい当主は古株の家臣たちを仕切るのは難儀するはずです。
が、皆に一目置かれたこの周瑜さんがいたからこそ、まとまったのかと思います。



そして迎えた建安13年(208年)!!
赤壁の戦いであります。

南下してきた曹操軍のあまりの強大さに、孫権陣営は激震します。
そして降伏論が圧倒的多数を占めてしまう中、周瑜は徹底抗戦を主張します。
大都督(総司令官)に任命された周瑜。
率いる孫権軍は、2万〜3万であったといいます。
対する曹操軍は、15万〜24万。
まさに・・・まさに圧倒的な兵力差であります。


・・・が!
勝ってしまうのです!!
凄い!!!
凄いです周瑜さん!!!


この時、劉備と同盟を結んでいたのですが、その数は2千〜1万ほど。
しかも参戦したのは勝敗がほぼ決した後の追撃戦からであります。


ではここで、賢者・Wikipedia様からも抜粋して転載したします。
この 「 赤壁の戦い 」 はメジャー(?)な戦ですので、いつもよりたくさん転載させていただきます。
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓


************************************


数十万の兵を擁すると言われる曹操の大軍勢を前に孫権陣営は恐れを抱いた。
しかし、都督周瑜は「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。
それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある」と分析し、孫権に開戦を説いた。


魯粛は劉備に孫権と同盟を結んで曹操と対抗するように説き、劉備は諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結び、孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を劉備の救援に派遣した。
一方の曹操軍も長江を下り、両軍は赤壁で一戦を交え、周瑜らは疫病に悩まされていた曹操軍を撃破した。


『三国志』魏書武帝(曹操)紀の原書には、「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利だった。
疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので、撤退した」と書かれている。
『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、徒歩で撤退した。
劉備は曹操を追撃して、火を放ったが、曹操に逃げられた」と書かれている。


『三国志』呉書周瑜伝には周瑜の部将の黄蓋は、敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を進言した。
そして自ら曹軍に対し偽りの降伏を仕掛け、曹軍が油断した隙をつき、油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。
折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。
船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。
曹操は後退し烏林に陣を張り、周瑜らも長江を挟んで対峙した。
『三国志』魏書武帝紀の注に引く『江表伝』には、この時、周瑜らは渡渉し陸上から曹操の陣に追撃をかけ、曹操軍は潰走したと書かれている。


『三国志』蜀書先主(劉備)伝には、「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」と書かれている。


『英雄記』には、「曹操は赤壁から長江南岸に渡ろうと思ったが、船がなかったので筏に乗り漢水沿いに注浦口まで行ったが夏口を周瑜たちが守備していたためすぐに渡ろうとしなかった。
周瑜は夜中に密かに軽船・走舸一百艘をやって筏を焼かせた。
曹操は夜中に逃走することとなった」と書かれている。


曹操は残った船を燃やして、敗残兵をまとめて撤退した。
疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が亡くなった。
『三国志』呉書呉主(孫権)伝には、曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で亡くなったと書かれている。


************************************


以上、転載終わり。


さてさて

赤壁の戦いにて大勝利を収めた周瑜さんではありますが、あくまで曹操軍の進攻を防いだだけであります。
ですので、この機を逃さず、反撃に移ります。
荊州争奪戦の幕開けです。
が、この攻防戦において周瑜さんは敵の矢を受け負傷してしまいます。
そして二年後、病に倒れ最期を迎えます。
36歳の若さだったそうです。


若い・・・
若いですね(><)
でも、こればっかりは何ともならないですね。

矢傷が原因とも、病死とも言われております。
また、暗殺だったのでは? といった話も耳にしたことがあります。

ともあれ、この周瑜さんが成した大業は凄まじいです。

まぁ、赤壁の戦い事体、その実態が未だ分からないそうですが・・・(^^;)
それはそれ。
良しとしましょう♪



本日もこのブログを読んでくださり、ありがとうございました(^^)

ではまた〜



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三国志 登場人物紹介・その26 〜張繍〜

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張繍。


jami 的能力値判定
【武力】 3 ★★★
【知力】 2 ★★
【魅力】 2 ★★

はい。張繍 (ちょうしゅう)さんです。
前回 典韋さんのことを書いていたら、この張繍さんのことも書きたくなったので、今回書きます(^^;)

何を隠そう、この張繍そしてその軍師・賈詡こそが、典韋を倒したのである!
・・・と書いたところで、三国志ファンの皆様はすでにご存じですよね(^^;)

以下、賢者・Wikipedia様より、抜粋して転載
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓


************************************


建安2年(197年)春、曹操が南陽郡に侵攻し淯水に陣営を置くと、張繍は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。

ところが、曹操が亡き叔父の妻であった未亡人を側妾にしたため、張繍は恨みを抱くようになった。
曹操は張繍が恨んでいることを知ると、密かに張繍を殺害する計画を立てた。
しかし張繍はこの計画に気付くと、賈詡の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。
この奇襲で張繍は、曹昂・曹安民・典韋などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。


建安4年(199年)11月、当初張繍は袁紹からの同盟の誘いを受けるつもりであったが、賈詡から「大勢力たる袁紹との戦いを控えた今の曹操は、味方になる勢力を必ず厚遇するでしょう」と進言され、これに従って曹操に帰順し列侯に封じられた。

帰順後、張繍の娘は曹均の妻として迎えられている。
建安5年(200年)、官渡の戦いで武功を挙げ破羌将軍に昇進した。
また曹操に従い袁譚を破ったため、加増を受けて領邑が合計2,000戸になった。


************************************


以上、転載終わり。

いやはや・・・ぶっとんでおりますね(^^;)

曹操さんを九死に一生!というところまで追い詰めておきながら、その上でその軍門に降るとは・・・(^^;)
まぁ、軍師である賈詡さんの進言ではあるのですが、よく決断しましたね。
そしてまさに理にかなった進言。
一人でも味方が欲しい、劣勢に立たされた相手だからこそ、命を狙った相手でも厚遇される。

まぁ、軍師である賈詡さんの手柄なんですけどね(^^;)


・・・と!
今まで思っておりました。
もちろんその通りなのですが。
そのため、この張繍さんのことを特に気にかけることは無かったのですが、最近、漫画 「 蒼天航路 」 を再読しておりまして、張繍さんが

「 涼州出身の血が騒ぐ 」 

みたいなセリフがあり、ちょっと胸が熱くなりました。
涼州出身と言いますと、屈強な騎馬民族を連想します。

・・あぁ、そうか。張繍さんは涼州の方かぁ!
ってな感慨がありました。
軍師があまりに有能なため、この方の存在感が薄らいでいただけで、この方はこの方で、なかなかに優れた武をお持ちなんだなぁと感じたのです。
そして事実、あの董卓軍にいたようです。


「 うひゃ〜〜、あの暴虐なる董卓軍の一角だったのね(((o(*゜▽゜*)o)))」

と胸躍ったjamiでありました。



本日もこのブログを読んでくださり、ありがとうございました(^^)

ではまた〜



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三国志 登場人物紹介・その25 〜典韋〜

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典韋。


jami 的能力値判定
【武力】 4 ★★★★
【知力】 1 ★
【魅力】 2 ★★

はい。典韋 (てんい)さんです。
曹操のボディガードとして活躍した猛将ですね。

私が初めて典韋さんを知ったのは、幼い頃 友達の家に遊びに行った時のことでした。
その友達は男の子で、本棚に横山光輝 先生の 「 三国志 」 がズラリと並んでおりました。
確認はしてないのですが、おそらくは全巻あったのではないかと思います。

何気なく一冊を手に取って読んでおりましたら、戦闘シーンが描かれておりました。
多くの敵を、確か一人で迎え撃っていたように記憶しております。
その迎え撃っている男は、武器を持っておらず、敵兵の武器を奪ってはそれで戦い、やがて武器が壊れ、また敵兵の武器を奪ってはそれで戦うのですが、やはり武器が壊れてしまいます。
そして(確か)

「 なまくらばかり持ちおって! 」

みたいなことを言っていたような気がします。
そして敵の攻勢に抗しきれず、弓矢の雨を受け、立ったまま絶命しておりました。
おぼろげながら、それでいて印象に残っております。

それからかなり時が流れまして、やがてjamiは三国志に興味を持ちました。
そして思い出すのです。

「 あの男こそ、典韋さんに間違いない!!! 」

と。
はい、おそらく間違いないでしょう。
念のため 「 典韋 横山三国志 」 で画像検索しましたら、立ったまま無数の矢を受けている男の画像が出てきましたから。
間違いなく典韋さんです。
・・・他にいらっしゃいませんよね? こんな散り様の方。

まさかまさかの仮装大会のシーンなんてないですよね???(^^;)
実はこの人は劉禅さん★なんてことはないですよね?(^^;)

次のページで 「 うっそぴょ〜〜〜ん♪ 」 とか言うシーンが控えてる・・・なんてことはあり得ませんよね?(^^;)
というワケで、典韋さんです、あれは。



そんなこんなで典韋さん、私の中ではこんな感じで、実は昔からその存在だけは知っていた方でした。
私の話ばかりでは物足りないと思いますので、これまた賢者・Wikipedia様から抜粋して転載いたします。
あくまで抜粋ですので、詳しく知りたい方はお調べください(^^)
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓


************************************


建安2年(197年)春正月、曹操が荊州の張繍を征伐し降伏させた時も、典韋は従軍した(「武帝紀」)。

張繍が降伏したときの酒の席では、一尺ほどの大斧を持って張繍たちを睨みつけたため、誰も顔を上げられなかったという。

その後、張繍が謀反を起こしたとき、曹操を逃がすべく部下とともに死にもの狂いで戦った。
典韋が守っていた陣門には敵が侵入できなかったが、敵は他の門から陣に侵入した。
典韋と十数人の部下は多数の敵に囲まれたが、典韋が戟を一振りすると、敵の十数本の矛が砕かれた。
多くの箇所に傷を負った典韋は、敵に突進し数人を殺してから、目を怒らせ口をあけ大声で罵りながら死んだ。
典韋の首や身体を、敵は全員で見物したという。

曹操は舞陰で典韋の死を聞くと涙を流し、子である曹昂の死以上に悲しみ、その遺体を取り戻すために志願者を募った。曹操は告別式で泣き、棺を陳留郡襄邑に送り届けさせた。その後、曹操は戦死した場所を通るたびに典韋を弔い、彼の子を郎中とし、後に司馬に採り立てて側に置いた。


************************************


以上、転載終わり。

強いだけでなく、義に厚いお方だったようですね。
まさに忠臣であります。



本日もこのブログを読んでくださり、ありがとうございました(^^)

ではまた〜



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posted by jami at 08:27| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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